2012年11月24日土曜日

工学に携わる者の社会的責任

科学技術は不可能を可能にしてきた印象がある。自然から学び、鳥のような羽根がなくても、人は空を飛べるようになった。脳の機能が解明されるに従って、病気や事故で失われた感覚や身体機能を取り戻すことができつつある。細胞分化の可塑性が証明されると、再生医療の現実味が増してきた。

 他方、「刃物」に象徴されるよう、技術にはメリットとリスクの二面性がある。おいしい料理をつくるための刃物は、戦争時には武器に変わる。むき出しの刃は時として事故の原因になる。

 これまでの工学は、切れ味を例にとれば、物が切れるという現象、物と刃の物性的関係、かかる力、切るために適切な形状等を研究し、切れ味の素晴らしい刃物を作ってきた。しかし、時としてそれは研究者が望んでいないつかわれ方がされ、心を痛めてきた。

 
 期待しないつかわれ方を避けるにはどうすればよいのだろうか。工学が科学と社会のインターフェイスであるならば、そこまで責任を持つことが必要ではないか。言い換えると、技術の表現方法を様々に研究することで、メリットとリスクを明らかにする(想定外をなくす)責任が研究者に求められると思う。

 
 人の行動や心身状態の情報「ライフログ」に関心が寄せられている。うまく使うと、医療コストの削減やマーケティングの効率化や、社会的弱者にやさしい社会インフラの実現など、様々なメリットが期待できる。しかし、悪用されればストーカー行為の助長だったり、保険事業において被保険者の不利益がおこったり、人権を無視した差別等、様々な不利益が考えられる。

 技術の表現方法の研究情報と社会倫理で技術が期待される用途に導かれるよう、研究者は最後まで責任を取ってほしい。
 

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